里見義堯



この物語は、里見義堯が北条氏康・武田信玄ら有名大名のように「野心家」であり、知略の限りを尽くし果敢に諸大名と闘う物語である。 とは言っても、天下統一という大それたものではなく、自らが旧鎌倉幕府の長となるべく「関東制覇」を夢見るものであります。 話の都合上、@大多喜正木時茂が生存していた
A1562年3月の三崎沖海戦は実施せず。
B諜報機関である「里の民」と「里の影」が実在する等、史実と違いますが御容赦下さい。 物語は、上杉政虎(謙信)が関東管領となり北条と激戦を重ねている永禄5年(1562)から始まります。 その翌年・翌々年、史実で有名な国府台合戦がありますが果たしてあるのやら。最後がどうなるかわかりませんが、気長に続けていく予定です。


文献等の解釈



戦国時代の里見氏は、関東の覇者北条氏の脇役的存在であまり語られることもない。たまにあっても、里見八犬伝かゲームだったりして、歴史について語る人は少ない。 という事で、永禄7年(1564)の第2次国府台合戦を中心に里見氏をまとめてみました。本ホームページは、引用文献等の内容を可能な限り載せています。 その目的は、文献等の解釈は各個人で違うためと、里見に興味を持って自分で本を購入したい人に役に立つと思っているからです。 あくまでも、引用文献については文献の著者・出版社が著作権を有しています。里見ファンを増やすためにも、決して悪用しないで下さいね。 なお、それ以外については、管理人に著作権あります。


モグラ叩きの戦術



真田義郎は、味方である上杉輝虎を酷評した。「政虎殿には、武田・北条・越中一向衆のみならず領内の揚北衆と敵が多すぎる故、北条の様に定番兵を割く事ができずにいる。 これでは、関東は治めきれんだろう。モグラ叩きをしているようなもんじゃ。 そこで相談なんだが、我らも、常陸の佐竹と同じように輝虎殿とは距離を置き独自の活動をしようと思うが、どうじゃ。」  義堯は相手の反応を見るように、斜に睨んだ。それが上策と思われます。但し、この件は内密として置いた方がいいでしょう。 義郎は、その話題が出るのがわかっていたかのように淡々として答えた。


太田城を居城する歴史



無職 佐竹氏は、室町時代に常陸国守護となり太田城を居城とし北常陸を領していた。守護とはいえ、一族の内乱や敵対する南常陸の多賀谷氏・江戸氏・小田氏を抱えていた。 そこで、そのような敵対勢力(特に小田氏)がいるため、武蔵へ出兵出来ないと上杉政虎へ訴え、たびたび敵対勢力を上杉輝虎へ攻めさせている。 一方、天正2年(1574)の北条軍による関宿城包囲時においては、上杉の援軍要請を「上杉が信用できない」と言った。 起請文を書かせる等の引き伸ばし策により援軍を遅らせ、関宿城は落城した。 関宿城は、戦略的に重要な拠点であるものの、佐竹にとっては北条の侵攻を遅らせてくれれば良い程度の拠点であり、出来るだけ自軍の損耗を避けたのだ。


上杉輝虎の武勇伝が素晴らしい



ナンバーズ3 このように佐竹義昭・義重は、上杉輝虎(謙信)を巧みに利用しつつも自軍の損害は極力抑える戦略により国力を高めて行った。 戦国末期、北条と対抗すべく小豪族が多い奥羽南部を押さえ動員数の増加を図る2次戦線と、常陸南部の豪族とは同盟的臣従(里見氏における正木氏のような関係)による北条との徹底抗戦の主戦線を構築した。 多分に北条の戦略的重要性・立地的距離から見て後回しになったことが幸いして、豊臣秀吉の小田原征伐まで領国を守りきったのです。 天正17年(1589)の摺ケ原合戦で伊達に負けたことさえ、芦名を領土に加えた伊達の勢力拡大を抑止する意味で、豊臣政権として隣接大名を重要視せざるを得なくなったことから、ラッキーな星に生まれたとしか考えられない。 以降、奥羽仕置きの先鋒として、関が原の戦い前後において後世に残る活躍をしていったことは周知であろう。 惣無事令・遅参という当時の状況では守ることが不可能に近い罪で減封となった、佐竹以上に北条と徹底抗戦していた「里見氏」とは対照的である。 ちなみに、同じような処遇の大名として「河野氏」が上げられる。四国仕置き時、「河野氏の家名を守るように、そのための努力は惜しまない」と言う小早川隆景に降伏したが、豊臣秀吉は存続を許さなかった。 秀吉は、一般的に流布されている「表面上」のおおらかさ・派手さで隠されているが、織田信長以上に打算的計算の持ち主であった。 里見氏と河野氏は、その後の仕置きにおいて軍事的価値がない存在と見做されたのである。 最後に、摺ケ原合戦の罪を伊達だけ受けて、芦名に協力して戦闘に参加した佐竹が知行安堵(同盟的臣従の豪族を家臣化したことからいえば実質的には加増)に疑問を持つ人はいないのだろうか?

あいさつ
戦国武将
徳川家康